今日は職場の仕事始めで、恒例の互礼会があった。午前11時ぐらいから職場の仲間などで軽く飲みながら新年の挨拶をする会で、僕はこの職場で初めてこういう行事を知ったのだけど、この互礼会について、ささいなことだけど印象に残っていることがある。
何年か前の年末だったと思う。新年の互礼会に参加する人はどんな人かといったような話が職場で出た。僕の職場はNPOなのだけど、企業とは違って関わる人の立場が様々で複雑だ。僕のような有給の職員の他に、ボランティアで運営に関わるスタッフ、会費を払って支えてくれる会員、寄付をしてくれる人、似たような団体の業界的つながりのある人、業務上付き合いのある人などなど。そういうわけで、いったいどういう人が参加するんだろうか、というようなことで誰かが疑問を呈したとき、ボスが明快に言ってのけた。
「誰でも!表の道を歩いてる知らん人でもええねん」
このボス、この業界では結構な人なのだが、その場その場でウケを狙って適当な事を言う典型的なお調子もんでもあって、現実には、事務所の前をただ歩いている赤の他人が、正月だからと言ってうちの事務所の中に入り込んでいっしょに呑みたいと言ったときには、少なからず混乱が起きると思う。
だけどともかくその「誰でもええ」という言葉を聴いた瞬間に僕は、わけもわからず後頭部のあたりを掻きながら機嫌よくビールを呑んでいる見知らぬおっちゃんが互礼会の場にいる姿が思い浮かんで、その光景がやたらと面白いと思った。と同時に、僕の周りにある目に見えない鎖の輪っかの一つ一つが砕けるように弾け飛んでいくイメージが鮮明に浮かんだ。
その時その言葉は、その場にいた誰にも相手にされなかったと思うけど、僕はそういうわけで、そのやり取りを印象深く覚えていて、今日の互礼会の時もそれを思い出して考えていた。考えているうちに、はじけ飛んだ鎖の正体も見えてきた。
いま、社会で生きていくために最も重視される要素は人間関係だ。多少人より作業が速かろうと発想が独創的であろうと、結局のところ良好な人間関係を築けるかどうかが人の評価を決めてしまう。人が抱えるストレスの原因はほぼすべて人間関係によるものだと言ってもいいし、ホームレス状態になったり、自死を選ばざるを得なくなるのは、これらの「つながり」が失われた結果だ。
そのため、人は、より強く、より多くの人とのつながりを得るために努力することになる。新たな人と出会ったり、既存の知人関係を強化することで、その人が社会で「力」を持つ仕組みだけど、気をつけないといけないのは、その同じ努力が、人間関係の網目から外れた「他人」を排除する「力」を強化することにもなるということだ。排除された他人はもはや人ではなく、風景となる。
また、自分は太いつながりがあると思い込んでいた相手から「細い」扱いを受けたときにも、強い疎外感が生まれる。本来、自分を守り、自分の力をより引き出してくれると信じ、強化し続けていた人間関係が、実は、他人を排除するとともに、自分を縛る鎖になっていく。
そんな自分で自分を縛り付けていく鎖を「誰でもええ」は、軽やかに砕いてしまったわけだ。
「だれでも、道を歩いてる知らん人でも」、わけもわからないまま入り込んで、その場にあらかじめ存在していた強固なネットワークに組み入れられないまま、その瞬間だけ綿菓子のような細い糸でゆるやかに結ばれ、宴が終われば、じゃぁ!といって消え、いったいあれは誰だったんだろうねとささやかれる。
そういう「ふいに生まれふいに消えていく」軽やかな関係は幻想かもしれないけれど、そういう可能性を受け入れる心づもりをいつも隅っこに残しておきたいと思う。
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