今日 、少し調べ物をしていて、好きだった脚本家・倉本聰の言葉を見つけた。
「頭の中の手ぬぐいがグチョグチョに濡れているなら、疲れていたって絞りたくなるはずだ。この塾は、グチョグチョになっている人のための場所で、僕はその絞り方なら教えてあげられる。でも、グチョグチョになる方法なんて教えられないよ。」
(山と渓谷社『別冊山と渓谷・倉本聰の世界』。ただし、ネット上に引用されていたもので原典ではないから正確じゃない可能性もある。塾というのは富良野塾のことで、倉本聰が開いた脚本家や俳優の養成施設。)
僕にとって「グチョグチョの手ぬぐい」とは一体なんなのか、そんなことを考えた。
僕はこの数週間、前の仕事を辞めて次の仕事へ移る猶予期間のような時間を過ごしている。風邪のような風邪でないようなよくわからない体調不良状態が続いたせいもあって、無理をせずにどうしてもやらなければならないことだけをやるようにしてきた。こういう時間は、これまでなかなか取れなかった。長期休暇自体が取りにくかったし、たとえ取れたとしても、頭の中から仕事のことが抜けきることはなかった。それが今、ようやくどこからも力のかからない無重量状態として実現した。時間に追われない時間だ。
この無重量状態で放っておくと果たして僕は何をしたがるんだろうかと、この数週間、自分自身を観察してみた。時間ができたらやりたいと思っていたことはいっぱいあったから、ひょっとすると「グチョグチョに濡れた手ぬぐいを絞りたくなる」ように創作活動を始めるかもしれないという淡い期待もあった。
残念ながら現実は極めて怠惰などうしようもない状態に陥って、とてもじゃないけれど創作的なことはできなかったが、わかったことが二つあった。
まず一つ目。「何もしない」のではなく「何もできなくなる」ということ。
当初は「何もしない」ことを主体的に選んでいるつもりだけれど、途中から「何かをしようと思ってもそれが出来ない」状態になっていった。特に集中力や継続力を必要とすること、創造的なことが極端にできなくなる。
やることリスト的にやろうと思っていることはたくさん準備されているから、それらの一つひとつを認識する度に、後先を考えずに今取り掛かっていることを放棄して新しいことに手を出してしまう。その結果、すべてが中途半端になる。かろうじてやれることは単純ですでにやり方を会得していて、短期的に終えられることで、かつ明確な利得があることだけになる。多くの時間は、中途半端に作業を手にしては放り出し、手にしては放り出しを繰り返すことに費やされる。
この一つ目の発見は、過去にも同じ状況に陥ったことがあったので、すでに経験していることを確認したようなものだった。
だが、二つ目。こっちは新たな発見だった。一つ目で陥った無駄に見える時間以外の時間に、ほとんど勝手に自動的にやり続けていることがあった。それは「考え事」だ。
梅雨時に発生するカビのごとく、考え事が隙間の時間を徹底的に埋め尽くして行く。ちょっとでも頭の中に余裕がでると直ちにぐるぐると回りだし、外部から強制的に割り込みが入らない限り、自分では止めることができない。放っておいても始まってしまい、始まってしまうとやめることが極めて困難なのだ。このことは、一つ目の「何もできなくなる」ことにもつながっていて、つまり、あまりに考え事をしすぎるために、実際の行動に支障が出て、作業をどんどんと侵食していく。
思えば僕は、こういう「考え事」をこれまで低く評価していた。それは僕が、僕自身の特質を「つくる」ことに見出したがっていて、考えることはつくることに従属する手段だと思い込もうとしていたからだ。僕は「つくる人」で「考える人」ではないと。
もっとも、それには訳があって、考え事と言うのはどんどん内側に閉じていきがちで、本来なら分離すべき多くの細々とした苦痛や快楽、懸案や希望を一緒くたに絡めとって合併し肥大化させてしまう。それはとても危険だ。だからこれまで僕自身、螺旋状に気分が落ち込んでいくような状態に陥らないように細心の注意を払って考え事を制御してきた。
しかし実際は逆だった。僕にとって、つくることは考える事に従属した手段の一つに過ぎなかった。いや、今になってようやくそれを認めることができたわけで、これまでは「無理やりに」つくるための手段として考える事を強いてきた。もちろん、一般につくることと考えることは分かちがたく結びついているものだと思う。ただ、僕にとっては源泉となることはこれまで封じ込めてきた考え事の方なのだ。それを自覚した。
出力をうまく選んでやることで、考え事の螺旋降下が孕む危険性は制御することができる。また、強固な日常感覚があれば考え事が心的に深刻なダメージを与えることも回避でき、回復可能なこともわかってきた。
そうなると、つくる以外の出力手段も選ぶことができるのではないかと思えてくる。例えば、考えながら人と会って話すことでもいい。考えているということを伝えるだけでもいい。考えながら誰かの傍らに立つことだけでさえ、十分に意味のあることかもしれない。
そういうことができる場があれば僕が考えたことは、僕が何かを作らなくても実現していくだろう。僕の考え事を一部でもいいからうまく出力し実現化する手法を見つけ出すことができれば、考え事自体が、主体的に時間を費やすべき立派な生産的作業になるのかもしれない。後はどうすればそう出来るかを考えればいい。その手段はつくることにこだわらなくてもよくて、何にも縛られないアプローチをとることができる。
もちろん考え事だから、答えが出たり出なかったりするだろう。悩みが増えたりするだろう。行動を考えが追い越してしまったり、逆に出遅れたりするだろう。受け入れがたいことを受け入れざるを得なくなったりするだろう。これまで築いてきた何かを打ち壊してしまったりするだろう。でも、それでいいのかもしれない。
考え事こそが僕の「グチョグチョの手ぬぐい」で、あとは絞る方法をあれこれ考え事しよう。